江戸時代初期に「大坂幕府構想」検討か 小堀遠州が藤堂高虎に宛てた新たな書状見つかる ”江戸時代“でなく”大坂時代“となった可能性

1: :2018/12/20(木) 19:59:20.38 ID:

江戸時代の初期、大坂を徳川幕府の本拠地とする「大坂幕府構想」が検討されていた可能性を示す新たな書状が見つかりました。書状からは、当時、江戸にいた将軍の居城になることを想定して大坂城の築城が進められていたことがわかり、調査に当たった専門家は、構想が具体化していたことがうかがえると指摘しています。

この書状は、三重県に住む男性が茶道具店から購入し、三重大学の藤田達生教授などが調査を行いました。

その結果、書状は、花押や筆跡などから、「大坂の陣」のあと大坂城の建て直しを担当していた小堀遠州が、遠州の義理の父親で徳川秀忠の側近、藤堂高虎に宛てたもので、記された内容から寛永3年=西暦1626年に書かれたと考えられることがわかりました。

藤田教授によりますと、書状の中で、遠州は、大坂城の茶室の庭に置く石を献上するよう高虎に進言し、その理由について「大坂はゆくゆくは御居城にもなさるべきところ」と説明しています。誰の城になるかは明記されていませんが、城に「御」という敬称が付けられていることなどから、当時、江戸城にいた大御所の徳川秀忠や、三代将軍、家光の居城になるという前提で遠州が大坂城の整備を進めていたことがわかるということです。

徳川幕府の本拠地を江戸から大坂に移す「大坂幕府構想」は、この書状の10年ほど前、「大坂夏の陣」の直後の史料にも記されていますが、間接的な聞き書きにとどまっていました。

この構想について、藤田教授は「大坂は豊臣家以来の伝統的な場所で、京都と大坂で体制を安定させていく目的があった。豊臣家が滅亡したときから家康が近畿地方を政権の本拠地にしていこうと考えるのは自然なことだ」と指摘しています。

そのうえで、「『ゆくゆくは居城になる』というような表現については、あまりにも大きな内容なのでびっくりした。家康の構想に沿って秀忠も動いていたことがうかがえる」と話しています。

■書状の内容は

書状を書いた小堀遠州は、遠州流の茶道の祖としても知られる大名で、「大坂の陣」で荒廃した大坂城の再建にあたって、建築を担当する作事奉行を務めました。

相手の藤堂高虎は今の三重県にあった津藩の藩主で、徳川家康の信任が厚く、その後も、将軍職を退いて大御所と呼ばれていた徳川秀忠の側近として重用されていました。

大坂城の歴史に詳しい大阪城天守閣の跡部信研究副主幹によりますと、書状は、江戸にいる高虎に対する返信で、秀忠の孫の誕生についての祝儀に関するやり取りから始まっています。

このあと、自身が手がけている大坂城の茶室と庭について触れ、「あなた様の京都の庭にある石鉢などをご進上されるのがよろしい。適当なものがありません」などとつづっています。そのうえで、「大坂はゆくゆくは御居城にもなさるべきところなので、このたび石を進上するのがよい」と重ねて進言しています。

このほか、秀忠の体調に関する話題として、「現在はお食事も召し上がっておられるとお知らせ下さり、めでたく存じます」などとも記され、2人が将軍家の内情について詳細なやり取りをしていることがうかがえます。

跡部さんは「幕府の中枢にいる人物の間でのやり取りの中で『大坂幕府構想』が語られているので、当時としては現実味のある構想だったと言えると思います」と指摘しています。そのうえで、「今回の書状は、大坂城再建のまさに中心にいた小堀遠州が出している手紙で、大坂に将軍と大御所を移すという構想を語っている。見逃せない史料で、久しぶりに興奮しました」と話しています。

■「”江戸時代“でなく”大坂時代“となった可能性」

跡部さんによりますと、徳川幕府の拠点を大坂に移す構想は、西暦1615年、豊臣家が滅亡した「大坂夏の陣」の直後に上洛した薩摩藩の島津家久の話が、史料に記されています。この史料には、家久が幕府の上層部から、大坂城を当時の将軍、秀忠の居城にするという計画を聞いたと記録されています。

跡部さんによりますと、その後、秀忠は、朝廷と幕府の関係を強化する「公武合体政権」を目指して娘を天皇家に入れ、寛永3年=西暦1626年に孫が生まれていました。

以下ソース先で

2018年12月20日 18時18分
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20181220/k10011754471000.html

20: :2018/12/20(木) 20:09:36.10 ID:

>>4
京の二条城と同じく将軍や大御所が大坂に滞在した時の居城になるってだけの意味な気がする。

251: :2018/12/20(木) 22:35:02.35 ID:

>>20
俺も真っ先にそれを考えた

25: :2018/12/20(木) 20:11:01.38 ID:

>>4
江戸城や大坂城の他にも、
駿府城や二条城など将軍の持ち城は全て「御」がつくのにね

277: :2018/12/20(木) 22:55:15.46 ID:

>>4
庭師の庭石注文で歴史ミステリーなんて
法隆寺中門怨霊封じ込め説級のトンデモ話

19: :2018/12/20(木) 20:09:29.94 ID:

>>1
大阪でなくておk?

672: :2018/12/24(月) 16:17:34.75 ID:

>>19
当時はこれでいい

131: :2018/12/20(木) 21:00:38.32 ID:

>>1見て堺大樹の話かと思ったら全然違ってたわ
義栄のお父さんね

133: :2018/12/20(木) 21:01:17.48 ID:

>>1

信長の野望 天翔記を未だにプレイしているが藤堂高虎は必ず斬首している

136: :2018/12/20(木) 21:03:39.59 ID:

>>133
使い切れたのが大和大納言秀長と家康なのが
性格と器量が問われるな

153: :2018/12/20(木) 21:12:22.68 ID:

>>133
鳥羽伏見の戦いでも裏切ったからな、藤堂藩は。

582: :2018/12/23(日) 13:39:56.57 ID:

>>133
天翔記が現役かよw

オレもそうだがwww

155: :2018/12/20(木) 21:13:01.67 ID:

>>1
安土桃山時代って本当は「安土大坂時代」だよね
トンキン大学の手にかかれば大阪の存在感ゼロになるけど

160: :2018/12/20(木) 21:14:20.68 ID:

>>155
そもそも、桃山なんて地名は安土桃山時代にはなかったからな。普段文献第一とか言ってるくせに、歴史家はおかしい。

295: :2018/12/20(木) 23:14:04.47 ID:

>>1
藤堂高虎の末裔の津藩が、鳥羽伏見の戦いで新政府軍についた理由はコレだな。
せっかく高虎が幕府の本拠として造った大坂城を、幕府の本拠にしなかったから、
その時の因縁で、徳川幕府は藤堂藩からの恨みを買ったんだろ?w

308: :2018/12/20(木) 23:24:18.74 ID:

>>1
もし大坂に幕府を開いてたら地理的な要因から薩摩や長州も好き勝手は出来なかったかもな

310: :2018/12/20(木) 23:26:06.82 ID:

>>308
かわりに関東にまたぞろ半独立王国が出来て植民地になった挙げ句共産化したと思う

327: :2018/12/20(木) 23:40:33.98 ID:

>>1
拡大解釈しすぎwww

329: :2018/12/20(木) 23:43:34.66 ID:

>>327
構想どころか事実だよ
常に予備地
大阪城主 = 将軍 = 大阪城代
だから

415: :2018/12/21(金) 02:14:18.22 ID:

>>1

確か住民投票で否決されて構想はとん挫したんだよね?

461: :2018/12/21(金) 07:51:16.36 ID:

>>1

家茂就任あたりからでも大坂城に常駐してれば歴史は全然違っただろうな。

2: :2018/12/20(木) 19:59:55.37 ID:

大阪弁が標準語になってたのか。

478: :2018/12/21(金) 08:53:30.82 ID:

>>2
江戸時代でも京言葉(関西弁)こそ上品な言葉で関東の武士言葉は野蛮、と関西地方では思われていた。

557: :2018/12/22(土) 12:24:41.11 ID:

>>2
江戸の言葉は戦国時代の武蔵辺りの言葉そのものじゃなくて三河や上方他の影響でかなり変質しちゃってるから、むしろ幕府出来て人が流入しちゃったら船場言葉とか早期に絶滅して関西広域の言語も大分変遷してしそう。

562: :2018/12/22(土) 15:55:22.46 ID:

>>557
変質というか、江戸山手方言は、豊臣政権の共通語=近世初期の上級国民階級の畿内語が、
アクセントだけ東国化したものがベースだよね。
昨日のレスじゃないけど、少なくとも家光の頃までには江戸に全国諸侯の家族が集まっていた。
彼らは、豊臣時代には京都や伏見にいたわけだから。
もちろん、関ヶ原や大坂の陣、あるいは秀忠の冷酷な取潰し政策で入れ替えはあるけど、
階級集団として当然連続してる。

もし「大坂幕府」だったとしたら、豊臣政権の共通語がアクセントまるごとそのまま大坂の武家語になるのは確実。
上方語は保守的なので、21世紀になっても「共通語」は、
「一休さんの新右衛門さんの言葉を、京阪アクセントにした」感じになるのではござらぬか?
これも悪くないでござるね。

586: :2018/12/23(日) 14:19:20.38 ID:

>>2
別に方言は嫌いではないが今となれば大阪弁が標準語は嫌だな

602: :2018/12/23(日) 17:43:53.32 ID:

>>586
確かに今はTVマスゴミのせいで大阪のイメージが無茶苦茶にされてしまったからなあ。
大阪の芸能・人形浄瑠璃文楽は江戸時代の大阪弁で語られてるけど、大阪弁ってつくづく芸術的な言葉だと実感する。
江戸時代は、文化芸能経済すべてにおいて優れてる大阪幕府にふさわしい街だったんだろうなあ。

605: :2018/12/23(日) 21:37:05.77 ID:

>>602
大阪は江戸時代にやっと栄えた場所
大阪に幕府が移ってたら多分栄えなかっただろうね

623: :2018/12/24(月) 11:15:46.54 ID:

>>605
難波の宮っていうのが有った時代もあるんだよ。いまの天王寺あたりな。

626: :2018/12/24(月) 11:23:49.79 ID:

>>623
大坂城の南側ぐらいだよな

639: :2018/12/24(月) 12:25:40.05 ID:

>>602
確かにね
船場言葉はきれいですわ

吉本弁はあかんけど

625: :2018/12/24(月) 11:22:31.12 ID:

>>2
「おはよう」も「ありがとう」も関西弁ですが
世界最古の文学源氏物語の台詞も関西弁ですし

7: :2018/12/20(木) 20:04:14.90 ID:

250年間かけて全国の富を吸い上げて天下普請で江戸を整備したのに、ついぞ大坂を超えられなかったんよね。

40: :2018/12/20(木) 20:14:41.74 ID:

>>7
堂島が大きかったな。

8: :2018/12/20(木) 20:05:17.68 ID:

でもならなかった

9: :2018/12/20(木) 20:05:52.32 ID:

これで大阪人が今度は本来幕府が大阪に内定してたのにトンキンが卑怯な手段で奪ったって言い出すよねw

13: :2018/12/20(木) 20:07:15.62 ID:

プリンセス・豊臣

14: :2018/12/20(木) 20:07:29.27 ID:

まあ今の大阪城の元は江戸幕府が作ってるしな
あの巨大な石垣や堀を見たらなあ

15: :2018/12/20(木) 20:07:37.54 ID:

明治になって大坂に遷都しようとしたことはある。
太政官の審理で否決されたけど

16: :2018/12/20(木) 20:08:37.73 ID:

足利尊氏も京都に幕府開いちゃったよなぁ

17: :2018/12/20(木) 20:08:40.60 ID:

「自分が信じたい歴史」があって、その為に理屈をコネ回して「真実を知る俺凄い」と悦に入るのが歴史家という生き物

21: :2018/12/20(木) 20:10:22.41 ID:

大阪が居城だったら薩長に敗北しなかった
だろうな

結局、京と江戸の遠さが幕府崩壊の遠因に
なった訳だ

28: :2018/12/20(木) 20:12:14.12 ID:

>>21
室町幕府が弱体なのになかなか消えなかったのは京都押さえてたからだしな

22: :2018/12/20(木) 20:10:23.03 ID:

大坂が都になったところで特に意味はねえし

堺の連中が更にチョーシ乗るだけだろうし

23: :2018/12/20(木) 20:10:52.95 ID:

やっぱ富士山の噴火を不安におもっていたのか?

26: :2018/12/20(木) 20:11:14.70 ID:

日本最古の都。難波宮

はい論破

30: :2018/12/20(木) 20:12:31.26 ID:

これ、昔から言われてただろ。
家康が将軍になったころ、家康は家臣と一緒に「どこに幕府政庁を置くべきか?」という討論をやってる。
その時の案が、「江戸案」と「畿内案」の2つだった。(家康自身の居城駿府が入っていないことに注意)
上方案の具体的場所は、豊臣政権の遺産を引き継いで伏見という説が有力だったが、
「秀頼を追い出して大坂にする」という話じゃないか?という説もあった。

どうやら後者だったということ。家康たちは、江戸と大坂を比較してどっちがいいか検討していたでFAだろう。

31: :2018/12/20(木) 20:12:51.47 ID:

大坂時代を安土桃山時代と意味不明な呼称をつけたトンキン御用学者

54: :2018/12/20(木) 20:19:12.42 ID:

>>31
秀吉時代の政治文化の中心は京都
大坂なんて秀吉のただの私領でしかない

107: :2018/12/20(木) 20:47:20.64 ID:

>>31
秀吉は賤ヶ岳以降大阪城に滞在していたが、関白になり京の聚楽第に移り住み
大阪は軍事と経済の町、京は政治の町を住み分けた
秀次に関白譲ってからは聚楽第から伏見城に
伏見城で秀吉は亡くなり、秀頼や淀もいたが死後数か月に大阪城に移った

聚楽第は秀次死後取り壊され、その後に京城ってのがあったらしい
伏見城は家康に占拠され関ケ原の戦いで陥落、その後また築城されたが
以前茶々が住んでたが廃城になった淀城を少し移動した場所に復活させ
伏見城は取り壊された

127: :2018/12/20(木) 20:59:11.07 ID:

>>107
秀吉も、一瞬だけ難波遷都をガチで考えたと言われてるよね。数ヶ月間だけの話。
これは本物の遷都で、御所も公家も全部大坂に移転というもの。
御所まるごと天満に全部移転させ、淀川対岸の上町台地側に城郭と武家都市を作る構想。
あの辞世の句は、本当はこの遷都構想が夢破れた時の歌だという説すらある。

この話が無理になってからは、大坂はずっと秀吉が主として君臨する「お国の根拠地」だった。

629: :2018/12/24(月) 11:31:22.34 ID:

>>107
家康もほとんど駿府ぐらしだから苦しい言い訳

575: :2018/12/22(土) 20:53:07.47 ID:

>>31
安土?何も無いところや。

34: :2018/12/20(木) 20:13:45.38 ID:

大坂城代だからもともと将軍の城だろ

35: :2018/12/20(木) 20:13:50.62 ID:

家康の江戸開拓構想から見てこれは有り得ないな。
家康は秀忠にも伝えてるだろうし

36: :2018/12/20(木) 20:14:17.07 ID:

藤堂高虎

大河に残る最後の題材だな

37: :2018/12/20(木) 20:14:26.09 ID:

京都にしておかはったら1番良かったん
違いますか

55: :2018/12/20(木) 20:20:21.82 ID:

>>37
京都に居ると足利将軍みたいに半ば公家化して弱体政権になったら、
264年も徳川幕府維持出来なかったかも

394: :2018/12/21(金) 01:02:25.90 ID:

>>37
既においていただろ、三河武士は

三河政権たる室町幕府の支配層一覧(三河繋がり優遇)

■将軍御一家
【三代将軍足利義満時代】(3家)
・西条吉良氏(三河国幡豆郡吉良、三河県西尾市)
・今川氏(三河国幡豆郡今川、三河県西尾市)
・渋川氏(上野国群馬郡渋川)

【八代将軍足利義政時代】(4家)
・西条吉良氏(三河国幡豆郡吉良、三河県西尾市)
・東条吉良氏(三河国幡豆郡吉良、三河県西尾市)
・石橋氏(三河国設楽郡石橋、三河県新城市)
・渋川氏(上野国群馬郡渋川)

■三管領(将軍に次ぐ最高の役職、将軍を補佐して幕政を統括)
幕府執事(管領の前身)(3家)
・高氏(三河国額田郡菅生、三河県岡崎市)
・仁木氏(三河国額田郡仁木、三河県岡崎市)
・細川氏(三河国額田郡細川、三河県岡崎市)

管領(3家)
・細川氏(三河国額田郡細川、三河県岡崎市)
・斯波氏(三河国碧海郡矢作、三河県岡崎市)←初代足利家氏は、祖父より三河国碧海郡碧海荘を相伝し本拠とした
・畠山氏(武蔵国男衾郡畠山)←初代畠山義純は三河国生まれ

■七頭(管領家とともに幕政に参加できた七家)(7家)
・一色氏(三河国幡豆郡一色、三河県西尾市)(四職)
・山名氏(上野国多胡郡山名)(四職)←初代山名義範の実父は、矢田城主(三河国幡豆郡矢田、三河県西尾市)の矢田義清
・京極氏(山城国葛野郡京極)(四職)←京極高秀(佐々木道誉の嫡男)親子は三河国額田郡下和田郷(三河県岡崎市)の領主
・赤松氏(播磨国播磨郡赤松)(四職)←善住寺(三河県豊川市)に赤松円心親子の墓あり、赤松円心は一時、赤田和城(三河県岡崎市)に隠れ住む
・土岐氏(美濃国土岐郡)(五職)
・上杉氏(丹波郡何鹿郡上杉)(関東管領)←事実上の初代上杉頼重の屋敷あり(日名屋敷、三河県岡崎市)
・伊勢氏(出自不明)(政所執事)←活動を記録した最古の資料では、初代伊勢俊継は父、叔父、従兄弟と共に三河国額田郡賀茂郡(三河県岡崎市・豊田市)で活動

39: :2018/12/20(木) 20:14:38.19 ID:

小堀遠州って造園師だと思っていたら、元々は大名なんだ(´・ω・`)

41: :2018/12/20(木) 20:14:48.05 ID:

可能性」は有ったのかもしれないが
「結果」として成らなかった。
それだけの事だな。w

42: :2018/12/20(木) 20:15:14.51 ID:

そもそも家康が関東にこだわったのは源氏の象徴だからだ
源頼朝が、負けてから再起を図ったのも関東

家康は源氏ってものにやたらと強く思い入れがあって
日光なんていうパッと見で意味がわからないところに埋葬されたのもそれ
日光は源氏の宗教的聖地だったからな

オヤジがそこまで思い入れがあることは秀忠も知っており、
ここを離れたら源氏は名乗れねーわ、となったんだろ

65: :2018/12/20(木) 20:25:27.97 ID:

>>42

公家と距離おいただけだろ
そこまで源氏に固執するなら鎌倉幕府を再興するはずだし

81: :2018/12/20(木) 20:35:18.46 ID:

>>42
源氏発祥の地は摂津(大坂)は?

117: :2018/12/20(木) 20:54:06.29 ID:

>>81
清和源氏の本拠地は畿内・摂津の多田だな

403: :2018/12/21(金) 01:14:58.41 ID:

>>117
それな!
桓武平氏は神戸?

558: :2018/12/22(土) 12:46:29.85 ID:

>>42
源氏といえば>>81>>117も指摘してるが
まず思い浮かぶのは摂津国多田(現兵庫県川西市多田)だけどな

82: :2018/12/20(木) 20:35:18.78 ID:

>>42
足利も源氏じゃん

210: :2018/12/20(木) 21:55:09.89 ID:

>>42
家康が埋葬されたのは久能山…
後に日光に東照宮のコピーが作られ 、遺体が移されたんじゃなかったか?

455: :2018/12/21(金) 07:13:43.56 ID:

>>42
正確に言うと三河だからだぞ
三河の僧を送り込んでいなければ、日光にこだわらんかったかもしれん

■日光山
源頼朝がその三河の母方の従兄弟を別当に据えて以来、鎌倉幕府、関東公方、後北条氏の歴代を通じて東国の宗教的権威の一中心であり続けた

源頼朝
・藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代藤姓熱田大宮司)→娘(由良御前)→源頼朝

母方の従兄弟
寛伝(寛典・観纒とも、額田僧都、式部僧都と称された、日光山満願寺19世座主)
・藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代藤姓熱田大宮司)→藤原範忠→寛伝

628: :2018/12/24(月) 11:26:24.37 ID:

>>42
家康は左遷先の江戸が嫌いで仕方がなかった
ずっと駿府で暮らしてたし遺体も遺言で久能山
日光は子孫が勝手に遺体を掘り起こして移した

638: :2018/12/24(月) 12:23:01.94 ID:

>>628
日光も家康の遺言じゃないの?

656: :2018/12/24(月) 14:11:13.50 ID:

>>628
家康生きてた頃の江戸なんてど田舎だったろうしなぁ。

637: :2018/12/24(月) 12:19:00.02 ID:

>>42
尊氏に謝れ

43: :2018/12/20(木) 20:15:16.29 ID:

徳川大坂城があまりにも巨大で凄すぎるので
小堀遠州も興奮して高虎に進言してしまった
あの城を見たらそう思うのも仕方がない

46: :2018/12/20(木) 20:15:53.31 ID:

いつの話だよ!

49: :2018/12/20(木) 20:16:57.00 ID:

ほー。これは面白いな。経済のこと優先すれば大阪に置く選択肢が普通にあったものな。

59: :2018/12/20(木) 20:22:42.94 ID:

>>49
京にも近いしね

51: :2018/12/20(木) 20:17:14.74 ID:

豊臣方の勢力が温存され、
既に開発された処よりも
自分たちで、真っ白なキャンパスに自由に絵を描いたほうが良いという判断では?

52: :2018/12/20(木) 20:18:08.25 ID:

将軍やってた時の家康は江戸より伏見に長く居た

57: :2018/12/20(木) 20:22:27.29 ID:

そうそう。江戸に居城が定まったのはじっさいは3代家光以降だものな。
そもそも酒も醤油も調達できない不毛の地に幕府の本拠据えると
決めたのこそ大勇断だったわけで、勇断というより初代二代が決めたことを
墨守してるうちに自然とそうなったということのほうが大きいんだろうけど。

61: :2018/12/20(木) 20:23:45.57 ID:

江戸時代って大阪の大名誰だったんだろ
御三家って愛知 茨城 和歌山 だったもんな

64: :2018/12/20(木) 20:24:58.43 ID:

>>61
天領
少しは勉強してから書こう

567: :2018/12/22(土) 18:26:10.07 ID:

>>61
豊臣亡き後初代の大阪藩主は家康の孫で養子の松平忠明
彼に命じて焼けた大阪城と大阪の街を再建させた。

62: :2018/12/20(木) 20:24:34.76 ID:

江戸初期の江戸の物流は各藩地元から各藩屋敷への仕送りがほぼ全てだったらしいからな
すでに成熟した市場があるところが良いってのは誰で考えただろうが、徳川が奇跡的にうまくやった

63: :2018/12/20(木) 20:24:51.29 ID:

他スレにも書いたけど、家康にとって江戸というのは、自分の趣味に合致する都市じゃないんだよね。
家康の趣味からすれば、ほとんど奇形に近い。
秀吉に不本意にも飛ばされ、それも小田原ではなく江戸を指定され。
この、平らな土地がほとんどない場所で、
苦心惨憺の末、なんとか形にもっていた奇形都市。
いくつもの城下町の縄張り指揮をしているが、江戸と同じ構造のところは1つもない。

家康の趣味通りの城下町の形は、ずばりいえば名古屋。
北端に四角形の巨大な城を築き、その南側に碁盤の目の城下町を作る。
系統としては、豊臣秀次に始まる当時のアバンギャルド。

そう考えると、松平忠明と藤堂高虎に普請させた徳川大坂城下町のマスタープランは、この変形であることが分かる。
名古屋型(駿府型)の南北軸を東西軸に90度回転させたのが、徳川大坂城下町。

68: :2018/12/20(木) 20:27:14.77 ID:

>>63
名古屋城は遠州公の力作といえばそうだな

72: :2018/12/20(木) 20:29:28.93 ID:

>>63
江戸の開発なんて南光坊天海に全フリですし

70: :2018/12/20(木) 20:28:10.76 ID:

まぁ、徳川幕府瓦解の折も大阪を首都にするという構想は
大久保利通が持っていたけどな。前島密の意見でそれは
実現しなかったけど。首都にする価値はあるという事は
徳川も明治政府も持っていたという事だな。

75: :2018/12/20(木) 20:30:42.69 ID:

>>70
石山本願寺城の時から
要衝の地だったからなぁ

86: :2018/12/20(木) 20:37:43.29 ID:

>>75
神話の時代から要衝の地だよ
吉野入りで大阪からは無理だったんだから

102: :2018/12/20(木) 20:44:29.17 ID:

>>75
建国前後……神武天皇の河内上陸を阻む長脛彦を背後に回り込んで捕縛し本拠地の河内・浪速を制圧して東征完了
倭の五王……難波京を建設、海上からも見える百舌鳥の丘に巨大古墳を造成して国力を誇示
飛鳥時代……恒久的な首府都市の難波京と、喫緊時以外の離宮としての宮の、二都体制
奈良時代……平城京を造成したものの交通の便が悪く、結局、副都の名目で存続させていた難波京が実質的な首都

124: :2018/12/20(木) 20:57:45.25 ID:

>>102
さんきゅ
詳しいね

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